岩川宏治の
「くわし過ぎる年表」
- 1983
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1月20日生まれ
大阪生まれ大阪育ち。幼少の頃から几帳面な性格。他人と同じ・右にならえ精神を嫌い、常に自分をはっきり突き通すため、常に敵が多かった。
- 1995
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中学生の頃スノーボードと出会う
板きれ一本で滑ったり飛んだり、社会に縛られず自由で少しワルそうなスノーボードに憧れる。いつか思いっきり滑り込みたいと山籠りに憧れを抱く。
- 1998
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高校に入学
制服がなく規律も緩い自由な校風に惹かれて大阪府立布施高校へ入学。友人とバスツアーを企ててスノーボードを楽しむ。その後、大学へ進むなら資格の取れるものをと考え、子どもが好きなので幼稚園教諭・保育士を目指す。
- 2001
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大学とスノーボード
聖和大学教育学部幼児教育学科(現在は関西学院大学と合併)に入学。同時に地元・八尾市にあるスノーボードショップREDS(現在は大阪府柏原市)に出会う。ここでスノーボードの滑り方はもちろん、カルチャーから山籠りの方法など、ありとあらゆることを教えてもらう。大学で幼児教育を学ぶかたわら、アルバイトとスノーボードに明け暮れる。冬休みと春休みはスキー場近くに友人たちとアパートを借りて毎日スノーボード三昧。オフシーズンは大学とアルバイト。
- 2004
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初めてのスポンサー
REDSからスポンサードを受ける。とはいえ、店から板1本を支給されるのみ。これを機にプロスノーボーダーになりたい気持ちが膨らむ。
- 2005
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スノーバム生活
大学卒業とともに幼稚園教諭一種免許状を取得するも、まだまだスノーボードに情熱を傾けていたため、就職せずにアルバイトとスノーボードにますます傾倒する。フリーターになったことで学生アルバイトよりは収入も増え、夏は海外遠征、冬は同じ志を持った友人たちとシェアハウス生活をしながら、プロライセンスを取るために大会転戦。
- 2006
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gray snowboardsとの出会い
さらに強力なスポンサーを得るために、ライダー選考会(オーディションのようなもの)に出場。大阪に本社を置く老舗スノーボードメーカーのgray snowboardsとスポンサー契約を結ぶ。この頃からアマチュアの大会では上位入賞が増え、スポンサーも増えてくる。ハーフパイプとスロープスタイルの2競技に出場し、どちらも表彰台に乗る成績を残す。gray snowboardsの広告やポスターにライディング写真が使用されるようになる。
- 2007
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異文化とのふれあい
スノーボードのトレーニングのため単身ニュージーランドを訪れる。秘境と言われるクラブフィールド(会員制スキー場、リフトがない)で山小屋暮らしを体験し、ニュージーランドの文化に魅了される。
- 2009
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プロに昇格
全日本スノーボード選手権ハーフパイプ部門で優勝。この結果によってプロライセンスを取得するも、プロスノーボーダーとしてどう生きていくかを模索し始める。
- 2010
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新しい一歩
シーズン直前のトレーニング中の怪我もあり、プロとして大会転戦など活動するも結果振るわず。年齢と実力から考えて、これ以上の活躍は難しいと考えプロスノーボーダーとして生きる道を断念する。同年春、父の経営する大徳木管工業株式会社に入社。
- 2011
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プロ活動を終える
定職につきながらも、休みや有給休暇を活用してプロ大会を転戦。PSA ASIA (プロスノーボーダーズアソシエイション)フリースタイルランキング6位になる。この結果を持って選手としての活動を終える。
- 2012
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ものづくりのいろはを教わる
大徳木管工業は、木管・ボビンという何かを巻きつけるための管を製造しており、木材だけではなく鉄やプラスチックを使った製品まで扱うため、加工技術も鉄工と木工の両方の技術を要する。ボール盤・旋盤などの汎用工作機械から、木工用の粗挽旋盤・ヤリ旋盤・昇降盤や自動カンナといった木工機械まで、工場にある機械を使いこなしてものづくりができるようになる。
- 2013
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一抹の寂しさを感じる
技術を磨きながらも、子どもと携わる仕事やスノーボード業界に片足突っ込んだときに見て感じた『遊び道具を作ったり売ったりしている人たちの眩しさ』を忘れられずにいた。
- 2014
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長女が生まれる
- 2018
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積み木づくり、始まる
長女と遊ぶため、会社の製品から出る端材で積み木を作る。その後、穴あけ技術を活かして積み木に穴をあける。これがココノスの始まり。